19 April 四月十九日 ▼先日の日曜日に、今回の公演の初の通し稽古を行った。稽古を開始した2月……といいたいが、脚本が完成したのが3月中旬だったので、実質は一カ月ほどの稽古期間だっただろう。稽古の進捗をスケジュール面で支えてくれているやぎぬまくんが厳しく、当初の〆切から設けられた役者の台詞覚えの期限をずらすことなく進めてきた。なので、役者たちには私の遅筆で大変な迷惑をかけたが、無事に初通しまで至れたことは喜ばしいことである。初通しはうまいこといったわけではないが、発見が多く充実したものとなった。実際、通し後のダメ出しを受けてか、昨日の稽古では役者たちの演技に大きな変化が見られて、私は終始笑いながら見ることができた。今週は大きな一歩を踏み出したと言ってよいだろう。▼さて、前回の日記では「雨を聴いて眠る」の原作、「菊花の約」や、その典拠である「死生交」の話。また「菊花の約」の作者である上田秋成の主知主義についての話を書いた。今回は「菊花の約」の物語の話をしようと思う。「菊花の約」は「死生交」のプロットを採用し、私もまたそれを採用している。つまり、これを知ってしまうと「雨を聴いて眠る」の中盤までのあらすじが露わになってしまうので、そういったものが嫌いな人はここで読むのをやめるのがよいと思う。 つづきはこちら PR
03 April 四月三日 ▼あなたは演劇に限らず物語を楽しむとき、どのように楽しんでいるだろうか。いや、質問の意図が不明確のは重々承知だが、ちょっと導入だけでも見ていってほしい。いつもより口当たりを易しく、2016年の大ヒット映画「君の名は。」や「シン・ゴジラ」に絡めて進めていこう。▼同時期に話題となった二作品だが、どちらとも非常に楽しめる映画だった。個人的な感想だが「君の名は。」はストーリーはもちろんのこと、新海誠監督らしい流麗な映像美やRADWIMPSの音楽もステキに楽しめた。「シン・ゴジラ」は個性的なキャラクターやリアリティの強い表現に魅入らされた。どちらも多くの来場者数を記録した作品なので、この作品らをあなたも観ていることだろう。あなたはどのような感想を抱いただろうか。▼ところで、世の中には物好きなものの見方をする人たちがいる。「君の名は。」は古事記や日本書紀と重なる部分があり、それを知っていればその展開にニヤついてしまったり、その対比に思わず納得してしまうだろう。「シン・ゴジラ」は歴代のゴジラシリーズを知っていれば興奮を覚えるシーンが盛りだくさんだ。つまり、何が言いたいかというと、自分の持っている知識や知性をもって物語を楽しむという手段がある。現代では、時にオタク的と評されるものの見方だが、あなたにも作品によっては心当たりのあるものがあるのではないだろうか。▼文学の世界では、それを「主知主義」と呼ぶことがある。感性や直感よりも、知性や知識をもって文学を理解しようとする立場のことだ。ここから本題に入っていくが、上田秋成はこの「主知主義」を重んじていたのではないかという見方がある。『雨月物語』は中国の白話小説(中国の古典文学くらいに思ってくれればよい)にその典拠を置いた翻案小説である。その読者は魅力的な『雨月物語』を直感的に楽しむことはできる。しかし、上田秋成は中国と日本の文化の差異や、時代の差異を的確に汲み取り、翻案している。そのため、読者が『雨月物語』を真に理解するためには中国白話小説のどの話を典拠とし、どの部分をオリジナルとして改変したかを解明することが必要となってくるのだ。私の率直な感想だが、何て傲慢な作家なのだろう。とても高いハードルを設置して、飛び越えてくれる人がいないかもしれない恐怖などはないのだろうかと思う。▼話を私たちの芝居に戻そう。私たちの今回の公演「雨を聴いて眠る」は『雨月物語』の「菊花の約」にその原作を置いている。そして、「菊花の約」は中国白話小説「范巨卿鷄黍死生交」(『古今小説』第16巻。以降「死生交」)を典拠に翻案している。つまり、今回の公演は二重に翻案された作品になるのだ。これらの内容についてはまた後々触れていきたいと思うが、ここで今回の話のテーマは何だっただろうか。――そう、「主知主義」である。こんな内容の日記を書いている時点でお察しだと思うが、今回の物語はその立場から鑑賞して頂いても十分楽しみ甲斐のある作品になっていると思う。それだけの用意をしてきたつもりだ。とはいっても、公演までに自力で「菊花の約」ないしは「死生交」についての十分な考察をしてきてほしいとは露とも思ってはいない。自分で言うのもあれだが、それはなかなか苦痛の作業が待っている。だから、私はそんな楽しみ方をしてくれる人たちのために、この日記を活用して両作品のプロットから解釈に至るまで、現代でどのように扱われているかの要点を記していこうかと思う。それを読めば今回の公演に必要な知識は十分手に入るだろう。そんなことをして何になるかと疑問に思う人もいるだろうが、私は手の内を全て晒してのあなたとのインファイトを望んでいるのだ。私と同じものを知って、原作である「菊花の約」、その典拠である「死生交」、そして私の「雨を聴いて眠る」に共通する主題について、是非一緒に考察をして遊んでほしい。誰か私と遊んでください。▼もちろん、そんなことを考えず気の赴くままに観て頂くことを一番に推奨するが、稀に私のように作品を偏屈に見て楽しむ人種もいるので、これは私と同族の人たち向けの内容だと思ってくれてよい。(いや、そんな人間一人もいないかもしれないが、いない方が平和なのでそれはそれでよい。)次回はきっと「菊花の約」のプロットについて書いていくだろう。
25 March 三月二十四日 ▼今日は稽古もなく、夜に余裕があったので日記でも書こうとしたが、2時間ほど格闘したすえにその内容をお蔵入りにした。まあ、内容を小難しくしすぎたせいなので、もう少し余裕のある時に手直して何とか形にしたいと思う。そして、それで終わるのは悔しいので、日付が変わったのにもかかわらず、こうやって日記を書き直している。▼今日は、私が脚本の題材を選ぶ際のポイントについて話そうと思う。これまで私事。の脚本は第二回以降全て自分が書いているのだが、なぜそれを選んだのかについてはあまり語ったことが無い。さすがに全ての作品について説明するのは骨が折れるので、特徴的ないくつかの作品について触れていこうと思う。▼私が脚本にしようと思う対象の基準は、そこに"余白"があるかどうかだ。それをこれから具体的な作品例をあげて示していこう。・第五回公演「五徳喚者―ゴトクカンジャ―」は、夏目漱石の未完のまま終わった最後の作品「明暗」を原作においている。未完であるがゆえに、水村美苗著「続明暗」や永井愛著「新・明暗」などの名作を生んでいる。そして、私もこの作品の結末に興味があったのだ。登場人物や時代設定などはオリジナルだったが、原作と同じプロットの上を走ることで、その線路の向こうには何があるのだろうという好奇心によって書かれた作品である。・第九回公演「怪問畸答―何ンデモ無ヒ―」は、夢野久作の『少女地獄』より「何んでも無い」を原作にした作品だ。登場人物に多少の変更は加えたが、時代はそのままに翻案した作品である。これは原作が全て臼杵先生による手紙という書簡体形式がとられた作品だ。つまり、全てが主人公、臼杵による主観によるもので、小説の中に客観的事実がひとつも保障されていない。私はその点に"余白"を感じ、舞台にすることで観客という目撃者を確保し、私の思う客観的事実を創作した。余談だが、この作品のアンケートに「現代に直してもよかったのでは」というものがあったが、この作品のプロットの肝となる部分が情報化社会と化した現代では成立しないと結論付けてあのようにした。・ハナシの種vol.1「トんだ未来」は番外的に行われた短編戯曲集だ。これは今流行りの"AI"をテーマに書いた作品群だが、実は"余白"という点でうまくいったとは言い切れない。AIは急加速しているジャンルなので、その"余白"は大きく存在すると思っているのだが、創作においては昔から手の付けられてきたものでもある。実際に、この公演を観て頂いた脚本演出家のNさんは「もっと手垢のついていないものが見たかった」と残している。私もその点に注力したが、今一歩及ばなかった。しかし、私はまだこのジャンルを諦められないので、いつかリベンジしたい。ここでも余談だが、私の好きな将棋ソフト開発者は「現代人に求められるのは、抽象的な事象を実際に計算可能な領域に変換すること」と言っていた。私たち人間には、未知なる"余白"を秘めており、それを表現というかたちで変換することが私の役割だと信じている。▼三作品について書いただけでそれなりに疲れてしまったが、要点は掴めてもらえただろうか。そう信じて、次の第十回公演について触れていく。「雨を聴いて眠る」は、上田秋成の『雨月物語』より「菊花の約」を原作においている。そして、この「菊花の約」がくせ者なのだ。『雨月物語』は近世日本文学を代表する作品で、中でも「菊花の約」は文学界でも研究史が豊富な作品である。しかし、豊富であるがゆえに、現代にいたってもその主題についての解釈が定まっていない作品でもある。私はそこに"余白"を感じ、今回の原作に採用したのだ。その具体的な内容については追々触れていこうと思うが、かなり内容がハードになると思う。どうかお付き合いいただくか、そっと無視してほしい。稽古の様子や、舞台の見所は私事。のtwitterを見るといいだろう。こっちでは存在するか分からないニッチな需要に応えていく。