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17 May

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03 April

四月三日

▼あなたは演劇に限らず物語を楽しむとき、どのように楽しんでいるだろうか。いや、質問の意図が不明確のは重々承知だが、ちょっと導入だけでも見ていってほしい。いつもより口当たりを易しく、2016年の大ヒット映画「君の名は。」や「シン・ゴジラ」に絡めて進めていこう。
▼同時期に話題となった二作品だが、どちらとも非常に楽しめる映画だった。個人的な感想だが「君の名は。」はストーリーはもちろんのこと、新海誠監督らしい流麗な映像美やRADWIMPSの音楽もステキに楽しめた。「シン・ゴジラ」は個性的なキャラクターやリアリティの強い表現に魅入らされた。どちらも多くの来場者数を記録した作品なので、この作品らをあなたも観ていることだろう。あなたはどのような感想を抱いただろうか。
▼ところで、世の中には物好きなものの見方をする人たちがいる。「君の名は。」は古事記や日本書紀と重なる部分があり、それを知っていればその展開にニヤついてしまったり、その対比に思わず納得してしまうだろう。「シン・ゴジラ」は歴代のゴジラシリーズを知っていれば興奮を覚えるシーンが盛りだくさんだ。つまり、何が言いたいかというと、自分の持っている知識や知性をもって物語を楽しむという手段がある。現代では、時にオタク的と評されるものの見方だが、あなたにも作品によっては心当たりのあるものがあるのではないだろうか。
▼文学の世界では、それを「主知主義」と呼ぶことがある。感性や直感よりも、知性や知識をもって文学を理解しようとする立場のことだ。ここから本題に入っていくが、上田秋成はこの「主知主義」を重んじていたのではないかという見方がある。『雨月物語』は中国の白話小説(中国の古典文学くらいに思ってくれればよい)にその典拠を置いた翻案小説である。その読者は魅力的な『雨月物語』を直感的に楽しむことはできる。しかし、上田秋成は中国と日本の文化の差異や、時代の差異を的確に汲み取り、翻案している。そのため、読者が『雨月物語』を真に理解するためには中国白話小説のどの話を典拠とし、どの部分をオリジナルとして改変したかを解明することが必要となってくるのだ。私の率直な感想だが、何て傲慢な作家なのだろう。とても高いハードルを設置して、飛び越えてくれる人がいないかもしれない恐怖などはないのだろうかと思う。
▼話を私たちの芝居に戻そう。私たちの今回の公演「雨を聴いて眠る」は『雨月物語』の「菊花の約」にその原作を置いている。そして、「菊花の約」は中国白話小説「范巨卿鷄黍死生交」(『古今小説』第16巻。以降「死生交」)を典拠に翻案している。つまり、今回の公演は二重に翻案された作品になるのだ。これらの内容についてはまた後々触れていきたいと思うが、ここで今回の話のテーマは何だっただろうか。――そう、「主知主義」である。こんな内容の日記を書いている時点でお察しだと思うが、今回の物語はその立場から鑑賞して頂いても十分楽しみ甲斐のある作品になっていると思う。それだけの用意をしてきたつもりだ。とはいっても、公演までに自力で「菊花の約」ないしは「死生交」についての十分な考察をしてきてほしいとは露とも思ってはいない。自分で言うのもあれだが、それはなかなか苦痛の作業が待っている。だから、私はそんな楽しみ方をしてくれる人たちのために、この日記を活用して両作品のプロットから解釈に至るまで、現代でどのように扱われているかの要点を記していこうかと思う。それを読めば今回の公演に必要な知識は十分手に入るだろう。そんなことをして何になるかと疑問に思う人もいるだろうが、私は手の内を全て晒してのあなたとのインファイトを望んでいるのだ。私と同じものを知って、原作である「菊花の約」、その典拠である「死生交」、そして私の「雨を聴いて眠る」に共通する主題について、是非一緒に考察をして遊んでほしい。誰か私と遊んでください。
▼もちろん、そんなことを考えず気の赴くままに観て頂くことを一番に推奨するが、稀に私のように作品を偏屈に見て楽しむ人種もいるので、これは私と同族の人たち向けの内容だと思ってくれてよい。(いや、そんな人間一人もいないかもしれないが、いない方が平和なのでそれはそれでよい。)次回はきっと「菊花の約」のプロットについて書いていくだろう。
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